2018/07/12 11:45

連日スポーツの話題で恐縮ですが、昨晩は日本人としてはウィンブルドンで錦織がジョコビッチに敗れ、サッカーファンとしてはイングランドがクロアチアに敗れる場面を目にすることとなりました。テニスの方は(残念だけれど)順当な結果、サッカーの方はサッカーの母国が'66年以来の決勝進出を逃してしまったという点でいささか感傷的なものでした。




あまり語られることのない点ですが、スポーツの大きな特徴には優勝者以外はほぼ全員が「敗れる」経験をするというものがあります。

たとえばテニスで最も格式の高い大会であるウィンブルドン選手権の本戦には、世界中から選りすぐられた128人のトッププロ選手が参加しますが、そのうち127人は敗戦をもって大会を去ります。敗北を知らずに済むのはたった一人の優勝者だけです(今年はナダルになるのか、ジョコビッチか、イズナー? アンダーソン!?)

スポーツから私たちが学べるものには一昨日記したスポーツマンシップがあります。それとともに、敗北の受け入れ方を学ぶことができるのもスポーツの大きな魅力の一つだと私は考えています。自分の話で恥ずかしいのですが、中学・高校の6年間、ほとんどの時間をソフトテニスに捧げていた私は敗北を受け入れられない子供でした。審判の判定に怒ってはラケットを投げつけ、ダブルスのパートナーのミスには腹を立て(もちろん自分は棚に上げて)、そして負けた後には誰とも口をきかない……。それはそれは短気な子供で、スポーツマンとしては最低の行いです。

大学に入り、テニスを辞めて、紅茶を飲んだり(アルバイトとして)いれるようになり、精神も大人になっていったのか、徐々に敗北を受け入れることが人間が成長する上でいかに大事だったのかを知るようになります。それが紅茶のおかげなのか、単に歳をとったせいなのか、それはよくわかりませんが、紅茶を飲んだりいれたりする時間が自分の中に「凪を生み出す」力を育ててくれたような感覚をもっています。特に紅茶を「いれる」時間の方かな。

ポットや手鍋にフタをして3分なり4分なり待ち、おいしい紅茶になるよう祈ること。あるいは仕事中であれば、その時間に自分が何をすればもっともお客様に気持ち良く過ごしてもらえるかを考え、お菓子を準備したり、洗い物をしたり、お水をサーブしに行ったり。そういう冷静さをみがくことができたこと。これらは紅茶(をいれること)のおかげで私の中にみがかれた素養の一つだと思います。

当たり前のことですが、紅茶の前に敗北はありません(たぶん……)。けれど紅茶をいれること、ゆったりした気分で紅茶を楽しむことで、敗北を受け入れる心構えを育むことはできるんじゃないかなと、私自身の体験からは思います。

スポーツを見ない方にも見てもらいたいなと思うのが、テニスの決勝戦後にある選手のスピーチです。たった今、試合に敗れ、あと一つ勝つだけだった優勝を逃してしまった準優勝選手もスピーチを行うのですが、彼らは必ず勝者を讃えます(また優勝選手も準優勝選手を讃えます)。

↓ パッと見つかった2015年の全豪オープンでのマレーの準優勝スピーチ。
最初の30秒ぐらいのところから勝者のノヴァク(ジョコビッチ)を讃えています



もはや「お約束」のコメントであり、形骸化しているという見方もできるかもしれませんが、かつてできの悪いスポーツマンだった私は、敗れた悔しさを隠し勝者を讃えるということが形だけでもどれほどむずかしいことかを知っています。最近、スポーツ関連ではあまりうれしくない話を聞くこともありますが、トップアスリートがいかに素晴らしい人々であるかをちょっとでも知ってもらえたらうれしいです。

そして私にとっては紅茶が、ほんの1ミクロンだけでも彼らの精神(技術じゃないよ!)に近づく助けになってくれたということも、人生にとってすごく大きなことだなと感じています。


敗北を受け入れるために(?)素敵な3分を過ごすパートナーとしてかわいい「犬」と「猫」はいかがですか?