2025/12/24 21:36

予備校生時代、その講師の先生は必ず二人称を単数で用いていました。

受験戦争の激化した時代で、大きな教室には150人、もしかしたら200人ぐらいの生徒が空席もなくみっちりと座り、熱意をもって彼の一挙手一投足に目を凝らし、耳を傾けていました。

生徒自身も教室の中に知らない奴がいっぱいいる状態、ましてわざわざ決まった曜日に東京からやってきて、講義中しか向き合うことのない人気講師にしてみれば、一人ひとりの顔と名前なぞ知るよしもなかったでしょう。
けれど彼は重要なポイントについて話すとき、人生について話すとき、必ず「君たち」ではなく「君(きみ)」と単数の二人称で私たちに話しかけてきました。

当時の私はといえば斜に構えた解釈がかっこいいなんて思っていた18,9歳。彼のそうした話し方も人気講師になるためのテクニックの一つなんだろうと分かった風な顔をしていましたが、気づけばその先生からの言葉には、他のどの講師よりも強い力が宿っていることに思い至ります。心に強く響いてくる一言一句。

今にして思えば、あの先生は本気で一人ひとりと向き合っていたたのだろう、少なくとも向き合うつもりだったのだろうと、そう思います。だからこそ言葉が力を持っていたのだろうと。
200人に話しかけていたのではなく、たった一人の私に話しかけていた。その絆の糸が200本、あの教室にはあったのだろうと思うのです。


今、自分が社会に出て、たとえば犬猫紅茶店の紅茶をどれだけの人がいれて飲んでくれているのか、販売された数とイコールでない以上、その正確な数はわかりません。
あるいは実際に買わずとも、いつか買ってみたいな、飲んでみたいな、どんな紅茶なんだろうと思い描いている人も、もしかしたら何人もいてくださるかもしれません。

私にできることは、その一人ひとりの存在を思うことなんだろうと思うのです。

あのときの予備校の先生のように、形は一人ひとりではなくとも、気持ちは一人ひとりに向けて語りかけ、行動し、思いが届くことを願う。それが社会にいる者としてのあり方なのだろうと、そう思います。


今日、クリスマス・イブのこの時間が、あなたにとって、そしてあなたのご家族にとって、素敵な時間でありますように。