2025/12/17 21:41
来春行われる野球の世界大会WBCの放映権をNetflixが獲得し、地上波テレビでは放映されないことが今日報じられていました。記憶があいまいで定かではないのですが、前回大会は日本が優勝したそうで、国を挙げての盛り上がりだったとか……。
個人的に野球はそれほど熱心に見ないので、来春の大会も見られなければ見られないで構わないのですが、さりとて、日本社会に暮らす多くの人々、とりわけ高齢の方にとっては地上波で見られないダメージはきっと相当大きなものがあると考えられます。
「お金払って見ればいいじゃん」という意見もあるでしょうが、視聴料がかかるということだけでなく、ネトフリの視聴環境を整えること、あるいは視聴習慣になれることがむずかしい方も大勢いるでしょう。
イギリスでは重要だとされるスポーツイベント、オリンピックやサッカーのW杯、ウィンブルドンなど、重要とされるイベント(listed events)に対しては、地上波で無料放送として提供すべきと定めた法律、つまり「ユニバーサルアクセス権」を定めた「listed events」制度があると聞きます。
その他、ドイツやEUにも「ユニバーサルアクセス権」に関連したなんらかのルールがあるとも聞きます。
もしも日本にも同様の考え方があれば、WBCの特に大詰めのところでの中継というのはまさにユニバーサルアクセス権が議論される対象になり得ると思うのですが、どうなんでしょうね。
もちろん一方でネトフリにはネトフリの商業的な思惑があり、ビジネス上の自由の下に経済活動を行っているだけですから、「お前ら、誰でもタダで見られるように、TV局に二次権利をお安く融通しろ」だなんて忠告する権利は、この国では誰にもありません。
果たしてWBCの地上波での中継が高い公共性を帯びるものなのか、あるいは自由な経済活動こそが守られるべきものなのか。もしも今後「ユニバーサルアクセス権」に関する議論が巻き起こるとしたら、そのあたりがテーマになりそうです。
果たしてWBCの地上波での中継が高い公共性を帯びるものなのか、あるいは自由な経済活動こそが守られるべきものなのか。もしも今後「ユニバーサルアクセス権」に関する議論が巻き起こるとしたら、そのあたりがテーマになりそうです。
そんな中で思い出すのが、米、です。
今年、米の供給やその価格がまったく安定しないで、政府があれやこれやと手を尽くして、どうにか国民にあまねく米が安価に届くようにと工夫している様子が、現在進行形で見えています。
極端な話、マリー・アントワネットじゃないけれど、米がなければパンや麺を食えばいいじゃないかという話だって成り立つと思うんです。でも、やっぱりそうはいかないですね。
日本の食料事情の基盤となるのはやはり米食であって、そこが安定しなければ国民の暮らしも安定しないだろうということなのでしょう。個別施策に対する是非はあれど、政府が懸命に供給を安定させようと努力することを批判する声はあまり大きくないような気がします。
じゃあ、紅茶は……という気はさらさらなくて、まあ紅茶は経済性の下にあちらへこちらへと左右されても仕方のない嗜好品でしょう。私個人的にはなければならないものですが。
そんなことよりも、どうでもいい思考実験的に思い浮かんだのは、「物語」のユニバーサル・アクセスが否定されたら、この世界はどうなるのだろう? ということでした。
メディアを通した物語、映画やドラマ、アニメ、マンガ等々は高額な支払いを行ったものしか享受できず、また図書館を代表とする公共による物語の提供は一切なくなってしまう世の中。一部の人しか物語を自由に楽しむことができない世界になったら、どうなってしまうのだろう? その場合、「物語」へのユニバーサルアクセス権は認められるのでしょうか?
そんなことをAIと話していたら、そういえば80〜100年ほど前のこの国は、物語が消失こそしなかったものの、著しく制限されていた国だったなということを思い起こしました。
今年、米の供給やその価格がまったく安定しないで、政府があれやこれやと手を尽くして、どうにか国民にあまねく米が安価に届くようにと工夫している様子が、現在進行形で見えています。
極端な話、マリー・アントワネットじゃないけれど、米がなければパンや麺を食えばいいじゃないかという話だって成り立つと思うんです。でも、やっぱりそうはいかないですね。
日本の食料事情の基盤となるのはやはり米食であって、そこが安定しなければ国民の暮らしも安定しないだろうということなのでしょう。個別施策に対する是非はあれど、政府が懸命に供給を安定させようと努力することを批判する声はあまり大きくないような気がします。
じゃあ、紅茶は……という気はさらさらなくて、まあ紅茶は経済性の下にあちらへこちらへと左右されても仕方のない嗜好品でしょう。私個人的にはなければならないものですが。
そんなことよりも、どうでもいい思考実験的に思い浮かんだのは、「物語」のユニバーサル・アクセスが否定されたら、この世界はどうなるのだろう? ということでした。
メディアを通した物語、映画やドラマ、アニメ、マンガ等々は高額な支払いを行ったものしか享受できず、また図書館を代表とする公共による物語の提供は一切なくなってしまう世の中。一部の人しか物語を自由に楽しむことができない世界になったら、どうなってしまうのだろう? その場合、「物語」へのユニバーサルアクセス権は認められるのでしょうか?
そんなことをAIと話していたら、そういえば80〜100年ほど前のこの国は、物語が消失こそしなかったものの、著しく制限されていた国だったなということを思い起こしました。
そんな時代は繰り返してはいけないし、繰り返されないだろうとは思いつつ、世の中のすべてのものに対して、経済性が優先されたり、国策が押し付けられたりして、アクセスが保障されるべきものにリーチできない世界。そう思うと、ちょっと怖いですね。
経済、とっても大事だけど、どこでどうやって私たちは線を引いて生きていくのか。
みんなで知恵を絞らなければいけない時代なのかもしれないですね。
経済、とっても大事だけど、どこでどうやって私たちは線を引いて生きていくのか。
みんなで知恵を絞らなければいけない時代なのかもしれないですね。
