2025/11/21 21:56


 エヌ氏は、自宅のリビングで満足げなため息をついた。目の前には、最新鋭の家庭用管理マシン「AIアポセカリー」が鎮座している。

 「おはようございます、エヌ様。今朝のバイタルデータ、表情筋のわずかな弛緩、および室内の湿度を分析しました」
 マシンの無機質だが優しい声が響く。
 「本日の処方は『春の微睡(まどろみ)への序曲』です。カモミールをベースに、希少な白茶を12%ブレンド、抽出温度は87度で仕上げました」

 コトコト、という心地よい音と共に、美しい琥珀色の液体がカップに注がれる。
 エヌ氏が一口飲むと、まさしくAIが説明した通りの味がした。昨夜の残業の疲れが、霧が晴れるように消えていく。完璧だ。
 自分の体が何を欲しているか、自分自身よりもこの機械の方がよく知っている。

 会社に行けば行ったで、デスクには「無限フレーバーカップ」がある。
 給湯室の味気ない白湯を注ぐだけで、カップの縁に仕込まれた電極と芳香放散口が、脳に直接信号を送る。
 「午後の会議前ですね。シャキッとするために、カフェインレスでありながら覚醒作用のある『電気的アールグレイ』の信号を出力します」

 それを飲めば、泥水だろうが最高級茶葉の味に変わる。エヌ氏は、味覚の王様になった気分だった。

 毎日が新しい発見だった。
 ある日は「失恋の痛手を癒やすミント」、またある日は「昇進祝いの薔薇の香り」。

 AIは決して間違えない。常にその瞬間の最適解を出し続ける。人生から「選択の迷い」と「失敗」が消滅したのだ。

 しかし、導入から半年が過ぎたある雨の休日のことだ。

 エヌ氏は「AIアポセカリー」の前に立った。いつものようにカメラが作動し、センサーが彼の瞳孔をスキャンする。
 「分析中……。本日は気圧が低く、少し憂鬱なご様子です。セロトニン分泌を促すため、カルダモンと……」

 エヌ氏は、ふとマシンの電源プラグを抜いた。
 プツン、と光が消える。部屋に静寂が戻った。

 彼はキッチンの棚の奥をごそごそと探り、ティーバッグの入ったアルミパックを取り出した。 
 ラベルには、手描きの素朴なタッチで、犬と猫がにこやかに微笑んでいるイラストが描かれている。

 「犬猫紅茶店ーまろやかブレンド」――小さなネットショップのオリジナルブレンドだ。

 ヤカンに水を入れ、ガスコンロの火をつける。
 シュー、ボコボコ。

 お湯が沸くまでの数分間、彼はただぼんやりと窓を打つ雨を眺めていた。最適化されていない、無駄な時間。

 ティーバッグを入れたマグカップ、3分待ってフタを外す。
 ふわりと立ち上ったのは、AIが計算した洗練された香りではない。日向の匂いのような、どこか懐かしく、優しい香りだった。

 一口すすると、頭の中にあるあの味と同じ、決して飾ることのない風味が口の中に広がった。
 「これだ」
  エヌ氏は深く息を吐いた。

 AIがくれるのは「今の自分の欠乏」を埋める味だ。だから飲むたびに体調はフラットに戻る。けれど、そこには「自分」がいなかった。
 しかし「犬猫紅茶店」の紅茶は違う。

 嬉しい日も、悲しい日も、疲れた日も、この紅茶は頑固なまでに「同じ味」でそこにいてくれる。まるで、人間の言葉を話さない相棒が、ただ静かに寄り添ってくれるかのように。
 自分の体調が変わろうとも、変わらない味がここにある。その安心感こそが、何よりの安らぎだったのだ。

 「明日の朝も、また犬に会いに来るか」
 エヌ氏はカップに残った最後の一口を飲み干し、AIには分析できない穏やかな微笑みを浮かべた。