2025/07/21 22:28
唐突な告白……ではないけれど、私はあまり人づきあいが得意ではありません。
「目上」とされる方々との付き合い方は致命的なほど苦手で半世紀以上生きた今でもよくわからないし、そうじゃない相手とでもこちらの言うことが伝わっていないなと感じることもよくあって、そんなときには「もう、いいや」とコミュニケーションを投げ出したくなってしまいます。ディスコミュニケーションに満ちた世界の中で、いつだって息苦しさを感じて生きてきたし、今も毎日のように感じています。
生きづらいな、苦しいな。あいつはなんなんだ。ふざけんな。
行儀のよくない言葉や思いが、いつだって簡単に胸の中から湧いてきます。
昔は大学を通い切ることもできず、会社づとめもままならなかった自分は、特別に他者との関わり方が下手なんだ。自分だけがこの環境に適していない生き物なんだと感じていたところもありましたが、歳を重ねるごとに「そうでもないのか?」と感じることも増えてきました。

特にSNSの時代になり、人々の内面が可視化されるようになってくると、息苦しそうにしている人々が思いの外、大勢いる様子が見えてきます。老若男女、洋の東西を問わず、いろんな人が自分はこの環境では生きにくいんだと感じているのかもしれない。
別にそれが自分の救いになったりはしないのだけど、それでも、同じような思いを抱えていそうな人の姿を見ているうちに、感じられるようになったこともあります。それは、
自分が苦しいからといって、それは他者を攻撃していい理由にはならない
ということ。特に自分が生きやすい場所を得るために、同じように苦しんでいる、あるいは自分よりさらに弱い者を攻撃する椅子取りゲームなんて、絶対にあってはならない。自分の息苦しさがあるのであれば、他人の息苦しさにも想像を及ぼさなければならないんだ。
年齢を重ね、インターネットを通じて見聞を広めるうちに、そんなことを思うようにもなりました。
もちろん今でも意見の合わない人は、テーマの大小を問わず大勢います。
別に聖人ではないので、腹の立つときは立つし、言い返すときは言い返す。また力のある者に対しては、しっかりと異を唱えていくこともあろうかと思います。
ただ、これは皆がそうすべきだという話ではなく、これまで環境に適していないと感じ続けてきた自分に対してですが、
『この環境で生きづらいと思ってるのは自分だけではないんだという思い、そこから生まれる想像力については、絶対に失ってはいけないのだろう』
と、そう思っています。
ああ、この人も今、空気が足りてないんだな。それはなぜなんだろう。
息苦しさを知る者としての想像力を欠くことのないように、紅茶でも飲んで、適度に息抜きをしながら、自分に合った環境をつくりあげていけますように。