2025/07/06 17:31

暑さに対して体が疲れをおぼえているのか、今日は何をしていてもずっと眠い一日。

紅茶が疲れを吹き飛ばしてくれる魔法の飲み物だったらいいのになと思いつつ、
それはそれで日常的には飲めなさそうなので、やっぱりやだなとか、
ベッドに横になりながら、そんなどうでもいいことを
ぼんやりと考えたり、考えなかったりしているうちに時計の針が進んでいきます。

(※眠いので生成AIにつづきを書いてもらいました)


こういう時間、人は「無駄だ」と切り捨ててしまうのかもしれない。 
生産性の欠片もなく、何かを生み出すわけでもない、ただ呼吸をしているだけの時間。

でも、本当にそうだろうか。

 情報の洪水から無理やり目を逸らし、やるべきことのリストから顔を背け、
身体が求めるままに横たわる。
それは、自分という容れ物が、静かに満ちていくのを待つ時間のような気もする。

慌ただしい日常で、少しずつすり減って、歪んでしまった心を、
本来の丸い形に戻すための、いわば「余白」。
そう思うと、このどうしようもない眠気さえ、
今の自分に必要な儀式のように感じられてくるから不思議だ。

窓の外では、陽が傾き始めたのか、
部屋に差し込む光の色が少しだけオレンジ色を帯びてきた。 
そろそろ起き上がって、冷たい水でも飲もうか。 
それとも、もう少しだけ、この静かな時間に身を委ねてみようか。

(※ここまでAI)
生産性の欠片もなく」とか余計なお世話だなあ。
別に「歪んでしまった心を、本来の丸い形に戻すため」に寝てるんじゃなくて、
ただ単に眠いんだけど……。

小学生の頃に書かされた作文って、
なにかお行儀の良い目標やまとめ、結論が必ずなければいけなくて、
ただただダラけた文章(というか思考)なんて許されなくて。

僕らはその感覚を本能的に勘づいていて、
何をするにもお行儀の良い理由やまとめを用意していた。
そんなことを思い出させるAIの文章ですね。
結局、人間の思考を根っこに抱えたままの、お手軽でお安い文章という感じ。

僕らは何かをするのに、あるいは何かをすることを話し言葉や書き言葉にするときに
どうしても何らかの理由付けをしたがるクセが子どもの頃からあるような気がします。
お行儀の良い学習の呪縛かもしれない。

けど、眠いから眠る、お茶を飲みたいから飲む、本を読みたいから読む、
とりあえずそれでいいんじゃないかなあ。

そろそろ起き上がって、冷たい水でも飲もうか。 それとも、もう少しだけ、この静かな時間に身を委ねてみようか。」

もう少しと言わず、
ずっとこのままでいさせてください。
人生、ずっと「『余白』」でいいです。